佐藤慎太郎/ SS 78期 福島

HERO STORY

競輪ファンの父の影響で競輪の道へ

子供の頃、競輪ファンだった父に連れられて、よくレースを観に行っていた。父はいつもこんなことを言っていた。「俺みたいな会社員は1カ月みっちり働いても何十万しかもらえねぇけど、競輪選手はたった3分走っただけで大金を稼ぐんだよ」。“しんたろう”少年は「会社員にはなりたくないな」とは思ったが、だからといって競輪選手になりたいとか、競輪が好きになるというわけではなかった。一緒に競輪場へ行くのは、父や仲間の競輪ファンが勝ったらくれるお小遣い目当てだった。中学の3年間は野球をやっていた。当時思っていたのは、野球という団体競技は1人がミスをしただけで負けてしまうし、1人が活躍しても勝てるわけじゃないということ。それに対し自転車は個人競技だから、自分が努力すればどうにかなる。強豪自転車競技部のある学校法人石川高等学校へ進んだ。選手になれるかわからないが3年間やってみようと思っていたとき、父に宇都宮競輪へ連れて行かれた。1993年、オールスター競輪決勝。神山雄一郎が初めてG1で優勝する姿を目の当たりにして「いつか自分もこんな大きな舞台で走ってみたい」と本気でプロを意識し、競輪で「HERO」になる夢を抱く。

競輪界のトップへと成長

本人は「暗示」というが、良く言えば父の「英才教育」が実を結び、1995年に日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)入校。合格まで2回かかったが、当時は5、6回落ちて当たり前。順調といえば順調。しかし、一発合格のエリート組には敵わなかった。それでも勝つために佐藤は「追込み」を磨いていく。翌年、在校13位で卒業して地元のいわき平競輪場でデビューし、B級優勝。1998年にA級初優勝。1999年にS級へ昇級すると、逃げが通用しなくなり、満を持して追込みにまわった。同年10月にS級初優勝。2001年には北日本を代表するマーク屋となってG1常連へと成長。2002年にはG1決勝の常連へと飛躍する。そして2003年、当時は11月開催だった全日本選抜競輪にて、G1初優勝を果たすのである。以降、4年連続でグランプリに出場するなど、競輪界のトップ選手として君臨し続けてた。

選手生命の危機とファンの存在

しかし人生、そう上手くはいかない。2007年に落車や失格が相次いでグランプリ出場を逃すと、翌2008年には落車事故による右足くるぶし剥離骨折。5カ月間の戦線離脱を余儀なくされた。医者からは、もう走れないかもしれないと言われていた。そんな時期にも応援メッセージをくれる人たちがいた。競輪ファンである。元通りに走れるかわからない中、復帰を信じて待ってくれている人たちがいる。そういう人たちのためにも、もう1回頑張らなくてはならない。佐藤は復活を果たした。競輪を走れることの大切さを、身にしみて感じた。G1優勝には届かなかったが、決勝には顔を出す強豪にまで脚力を戻した。2016年、史上27人目となる生涯獲得賞金10億円を突破。そして2019年、43歳1カ月という史上2番目の高齢記録でグランプリ優勝を成し遂げたことは記憶に新しい。あきらめずに応援してくれたファン、あきらめずにがんばり続けた慎太郎。「ガハハ!」と笑いながらも裏ではたゆまず努力を続け、自分を支えてくれる人々のために全力で走り続けた結果の3年連続グランプリ出場だ。ファンを愛し、ファンに愛される男が再び「HERO」に返り咲く姿を、みんなが望んでいる。